おばあちゃんとアリの記憶、そしてニューヨーク:当事者の想いを伝える触媒に

おばあちゃんとアリの記憶、そしてニューヨーク:当事者の想いを伝える触媒に

PROFILE

前田 真里 さん

Peace by Peace NAGASAKI 代表

活動歴
長崎生まれ。長崎市在住。フリーアナウンサー。「Peace by Peace NAGASAKI」代表。2004〜2008年長崎文化放送のアナウンサー、2008年春からホリプロ アナウンス室所属、2012〜2016年NYに暮らし、フリーランスとして取材活動をする。現在、長崎や関東のテレビ、ラジオ番組に出演中。2021年より、学校、公民館、オンラインで学生や社会人など多世代で平和について対話する「ピーストーク」を主宰。

■見えない傷に触れて

 戦争や命といったテーマとのかかわりは、物心ついた頃からですね。よく祖母と一緒に公園にアリに餌をあげに行っていたんですよ。なんでおばあちゃんはアリを大事にするのかなって思いながら。実は祖母が亡くなった後に知ったのですが、祖母には弟がいて、二十歳のときに満州とソ連の国境で亡くなっているのです。祖母は心の傷をずっと抱えて生きてきたんですね。

 原爆に興味を持ったのは長崎の高校で放送部だった時です。吉山さんという被爆者の方にお話を伺いに行きました。すごく明るい方で、私を孫のようにかわいがってくれました。でも原爆の話になると、涙ながらに当時のことを話すのです。自分のすぐ身近なところに、こんなに明るく元気に暮らしているように見えて、実は生涯苦しい思いを抱えて生きている人がいる。戦争と原爆に人生を狂わされてしまった人がいる。それを知ったことで、当事者の想いを伝えるアナウンサーになりたい、という夢が生まれました。

■長崎から全国区へ

 大学に通いながらアナウンススクールを掛け持ちして、最終的に、長崎のテレビ局、それも爆心地に一番近い局に就職しました。ご縁があったのでしょうね。

 地方局のアナウンサーというのは、海外と同じで、単に原稿を伝えるだけでなく、取材して記事を書いて、撮影して、と全部できないといけないのです。4年間、局アナをして、長崎の春夏秋冬を見て、やりたい取材はできたと思います。そのあと、上京してフリーアナウンサーになりました。オーディションを受けて報道番組のキャスターを務めるなど、目の前のものにひたすら全力投球の日々でした。

 県外で仕事をしていて気づいたのですが、原爆に関する報道って、全国的には8月6日の広島原爆忌で「おしまい」なんですよね。長崎はスルーされてしまう。長崎も取り上げてください、とデスクといつもケンカしていました(笑)。

■長崎には誰も住んでいない?

 それからしばらくしてニューヨークに行き、フリーランスとして通信社や新聞、テレビ、ラジオで仕事をしました。あるとき、ボランティア活動の一環として、長崎の原爆に関する紙芝居や読み聞かせのイベントをしていたのです。すると、そこにたまたま入ってきたアメリカ人が、「え、長崎って人が住んでいるの?」と英語で聞いてきたんですよ。最初はからかわれているのかな、と思いました。でもちゃんと話をしてみたら、本当に知らないだけだったんです。そこは教会だったので、私の故郷の長崎にも教会があるんだよ、原爆ではたくさんの信者の方も亡くなったんだよ、と話したらすごく驚いていて。

 その人も原爆のことは知識として知っていたけれど、チェルノブイリのように人が住めない場所になっているって思っていたみたいです。確かに、原爆の報道といえば「あの日に何があったか」が中心です。もちろんそれは重要だけれど、あわせて、長崎の今の街並みとか、美しい緑とか、文化遺産とか、人々の暮らしについても動画や写真や記事で伝えていかないといけない。ニューヨークでの経験を通じて、ジャーナリズムの役割だったり、メディアにおける自分の役割って何だろうと、あらためて考えるようになりました。

■地域と人を結ぶ触媒に

 それから10年ぶりに長崎に戻り、長崎と千葉のテレビ番組の仕事を続けながら、情報メディア学専攻の社会人大学院生として、新たな生活を始めました。

 周りには平和関係の仕事に就きたいと思っている学生や大学院生が多くいました。でもなかなか難しい現実がある。そこで、想いを持った人たちが、社会に出てからも平和情報発信に参加できる場所があったらいいな、と考えたのが、Peace by Peace NAGASAKI(ピース・バイ・ピース・ナガサキ)を立ち上げた理由です。2021年7月のことです。長崎県立大学の金村公一准教授と2人の活動からスタートしました。

 団体の理念として、4つの平和の要素、「友愛・寛容の心」「誠実であること」「日々の幸福な生活の大切さ」「平和を求め続ける力」を掲げています。核兵器や戦争の背景には、常に相手への不信感があります。そうではなくて、相手を思いやること、信頼することが求められている。私たちが目指しているのは、「平和の文化による平和」です。Peace by Peace の名前にはそういう意味が込められています。いろんな人と、地域と、モノと、チャンスを繋げる「触媒」でありたい、という気持ちが強いです。

■ニューヨークでも、大分でも

 立ち上げから軌道に乗るまでは正直大変でした。でも一歩踏み出してみると、いろんな人が知恵や力をくれて、次から次へと推進力が高まって、街を越えて国境を越えて、活動の輪が広がってきた、そんな感じです。

 「長崎市平和の新しい伝え方応援事業」に採択されたことで、2021年12月には「ピーストークfromナガサキ&ニューヨーク」というオンラインイベントを開催しました(Youtubeで視聴可)。あまり知られていないことですが、観光客で賑わうニューヨークの街にはアメリカの原爆開発計画「マンハッタン計画」の痕跡が残っているんです。長崎とニューヨークの歴史と現在と辿りつつ、被爆者、専門家、映画監督、親子記者を経験した中学生らが各地で繋がり、さまざまな視点で平和を語るという番組になりました。

 翌2022年には、「地域間連携によるピーストーク8.9 長崎⇔大分」として、別府市の中学校で被爆者の証言映像の上映をしたり、ダンススクールの小中学生への出前講座をするなど、地域間の交流学習に取り組みました。これらの記録をまとめた冊子は長崎や大分の学校、図書館、市役所などで広く配布し、平和学習に繋げてもらっています。

 息長く活動を続けることが大事だと思っています。同じ想いを持つ人と繋がっていく。若い人たちからもエネルギーをもらっています。結局、私は人が好きなんですね。いろんな人たちの触媒になって、対話のきっかけを作るということが楽しいんですよ。だから続けられるのだと思います。

●いっぽめの若者へのメッセージ

 平和活動について、「こうじゃないといけない」みたいな囚われのイメージがあるのではあるのかな、と思います。むしろ興味が出てきたらやってみて、ちょっと違うな、と思ったら休んでいいし、そしてまたやりたくなったらやってみる。新しいことを始めると視野が広がるし、ものを見る目も変わってきます。だから、知らない世界を広げるチャンスとして、無理なく一歩を踏み出してみたらどうでしょうか?私には、迷ったときに大切にしている祖父の言葉があります。「どんなドアもノックしないと、開かない」。